【第17日】おまじない

こんばんは。

もう9月も半ばを過ぎて、その早さにびっくりしています。本当にあっという間。気づいたら年末になってそう。

 

 

今日は短めに、おばあちゃんとのおまじないの話をします。おまじないというより、願かけかも。

 

夜、家に着いて施錠してあるドアを開け、居間にバッグを置いてから、開いたままの襖から彼女の寝室を覗く。目を瞑っている時はそのまま音を立てずに居間に戻るけど(ちなみに多少音を立てたところで気づかないのだけど)、目を開けていたら、ただいま、と声をかける。

 

目があって、ほころぶ顔が好きだ、っていうのは前にも書いたかもしれない。

 

冷蔵庫に入っているおかずのことや、デイサービスに行った日は何をしたかなどを二言三言話して、最後にかける言葉が今日のテーマ。

 

また明日ね、おやすみ。

 

きっかけというより、意識したのはそれこそおじいちゃんの介護をしていた時だ。おじいちゃんは肝臓が悪く、お腹に水が溜まって、みるみる歩けなくなっていった。病気の進行があまりにも早く、日々走るようにその気配が近づいてくるのがおそろしかった。願うようにおじいちゃんの手を握りながら、また明日ね、また明日ねと繰り返した。いずれやってくるその日が、一日でも多く延びるように。

 

そんなことを書くとおばあちゃんの状態が危ないのかと思われそうだけど、おばあちゃんは昨日もその前も、おじいちゃんが旅立ってから4年ずっと、目が合えば眉毛をハの字にして笑うし、おじいちゃんが好きな巨人戦を眺めながらデイサービスで習った指の運動をして、サーモンの刺身にこれでもかと喜ぶ。

元気か、というのはおばあちゃんの主観だからわたしには判断しかねるけれど、本人に聞くと、痛むところはない、とほっとしたような、どこかさみしそうな顔をする。きっとそれはそれで思うところがあるのだろう、おばあちゃんはひどくネガティブで、心配症だから。

 

 

長生きすることが喜ばしいとは、95年も生きていると一概にそうも思えないらしい。だからこれはきっとわたしの身勝手なわがままだ。

 

おばあちゃんは気づいているのかもしれない。でも多分、気づいていないだろう。

談笑しながら手にふれて、そっと込める願いは、5年前からずっと、変わらない。

 

また明日ね、っていう、小さな願かけの話でした。

 

 

色々書くと長くなってしまうのでこの辺で。

読んでくださって、ありがとうございました。